【映画】「青春ジャック 俺たちを止められるか」の感想

昭和感をも少し感じる最近ではあまり聞かないタイトル。

気になていたところ、口コミも良い且つたまたまキネカ大森の名画座で放映されているということで鑑賞。

自由、熱量、没頭、葛藤、現実とまさに青春を感じることができる素敵な映画でした。

ここで始めて知ったのが「若松プロダクション」。

若松孝二というピンク映画や政治系の映画で有名な映画監督が1965年に立ち上げた映画制作会社。

まさに現代で表現するところのベンチャー企業。

監督は「怒り」を大事にしていて、その「怒り」を映画作品にぶつけるスタイル。

「自分の中にある、ドバァ~と出せるものを何か見つけないと」

これは若松監督の言葉。

若松監督は若い頃は心中のヤクザで刑務所に収監され警察官にいじめられた経験から、警察官をぶっ殺してやりたいという感情を映画にぶつけることから始まっているそうです。

そんな魅力的な眩しい存在である若松監督に憧れ、若者たちが弟子入りしてきます。

そして、自分は撮りたいものがない、才能がないなどの現実と向きあい、焦り、葛藤していたのが助監督のめぐみ(門脇麦)。

まさに何者かになろうともがき苦しんでいます。

最終的には命を絶ってしまい悲しい結末であったが、これも現実。

特にこの何者かになろうとして葛藤しているこの感情は意外と危険なのかもしれません。

昨今ではSNSでもキラキラした地位、名誉、仕事のアピールを見ることによって、自分も何者かにならなければと思いがちです。

年を重ねるごとに何かをドンドン捨てていかなければ、溜まって、傷となり、精神的にももたなくなってくるのかもしれない。

そんな風に感じた映画でした。

刺さったフレーズ

おばけが若松プロを辞める際に放った言葉。

「エネルギーの貯金を使い果たした。」

この言葉を言い放って若松プロダクションを去っていく。

これ、私が所属しているベンチャー企業と同じだと咄嗟に思った。

何者かになろうとしてキラキラしたベンチャー企業に入社し没頭するが、途中に何者にもなれない自分に気づく。

時間が経てば経つほど、何者にもなれないことを薄々理解し、葛藤し、絶望する。

そして会社を去る。

結局、何者かになっているのは、純粋にこの事業をやりたくてやっている人な気がする。

何者かになるというのはすなわち、「周りから評価され定義された何者か」なんじゃないかなと。

つまり周りからの評価軸で活動しなければならない。

でもこういう人に限って、周りからの評価は気にしていないみたいな感じを出しているような。

これはめちゃくちゃ苦しいと思う。

それは他人からの評価されたいという欲求が原動力になっているから。

心の奥底では別に好きな仕事でもないため、ワクワクせず心にエネルギーが貯まらない。

一方で心底その事業が好きな人には勝てない。

何者かになりたいと思うのではなく、何をしたいのか。

それは手当たり次第やってみるしかなく、死ぬまでに見つかればよしと考えるぐらいがちょうど良いんじゃないかなと思います。

シーマー自身も2024年7月時点で35歳。

特にやりたいことは見つかっていませんが、昨年も没頭していた事業閉鎖となり私自身も次へ向かいます。

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